賢明なる投資家とは 第63回
岡山商科大学客員教授
長田 貴仁
【Profile】
経営学者、経営評論家、岡山商科大学客員教授。専門は経営者論。著書多数。同志社大学卒業。早稲田大学大学院修了。神戸大学で博士(経営学)を取得。ニューヨーク駐在記者、『プレジデント』副編集長を歴任し、2005年に神戸大学大学院経営学研究科助(准)教授就任。神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー、岡山商科大学・同大学院教授(経営学部長)、流通科学大学教授などを経て現職。日本大学大学院、明治学院大学大学院、多摩大学大学院、事業構想大学院などの社会人大学院でも講義。
※この記事は2024年7月25日発行のジャパニーズインベスター122号に掲載されたものです。
投資した会社のCEOを知らない投資家に警鐘
筆者は幸い、近年亡くなられた伊藤雅俊氏(セブン&アイ)、豊田章一郎氏(トヨタ自動車)、飯田亮氏(セコム)、清水信次氏(ライフ)、稲盛和夫氏(京セラ)、出井伸之氏(ソニー)、立石義雄氏(オムロン)、中村邦夫氏(パナソニック)などを含めて、著名経営者たちと交流する機会に恵まれた。その多くは、存在感が大きい「顔の見える経営者」だった。ところが最近、経営者の顔がはっきり見えなくなってきた。すぐにフルネームと顔が頭に浮かぶのは、オウンドメディアである「トヨタイムズ」を使い、CMだけでなくネット広告で頻繁に顔見せしているトヨタ自動車の豊田章男氏をはじめとする一部の有名経営者ぐらいだろう。
あの甲高い声で売り込むテレビ通信販売のスタイルで有名になったジャパネットたかたの創業者・高田明氏は「『目は口ほどにモノを言う』という言葉もありますが、実際には目も、手も、指も、身体も、表情もしゃべります。そういう非言語の力を活用することが、伝える際には不可欠です」という持論を持つ。
創業家出身者が会長を務める、ある企業のサラリーマン社長に豊田氏や高田氏のパフォーマンスについて意見を求めると、「創業者、創業家出身者はカリスマ性がある。だから、あのように堂々と振る舞えるのでしょうね」と答えた。
マックス・ウェーバー 「カリスマ」の定義
「カリスマ」とは、古代ギリシア語で「神の恵みの賜物」を意味する言葉だが、その学術的概念を打ち出したのは、社会学者のマックス・ウェーバーである。
ウェーバーは社会を支配する「3つの類型」として、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配を明示した(図)。合法的とは規則に基づき選ばれる(例:官僚)、伝統的は既存の秩序に基づいて任命される例:天皇陛下)。そして、カリスマ的はスター性や貴さ(尊さ)を感じられる人(例:「経営の神様」と言われた松下幸之助氏)による支配である。「?」は筆者の解釈となるが、卓越したサラリーマン社長が当てはまるだろう。このうち、合法的支配、伝統的支配が成り立つのは比較的平穏な日常的状況である。そのような状況から脱しなくてはならない、変革しなくてはならないときには、カリスマ的支配が有効になる。
ウェーバーは「カリスマとは特定の人物が有する非日常的なものとみなされた資質」と捉えた。従業員は、ある人物がカリスマという特別な資質を有しているがゆえに、リーダーになれば特殊な力を発揮すると思う。「カリスマ」と見なされる決定的な条件は、「奇跡」を起こす人物であると認められることである。
ただし、一時的に奇跡を起こし認められたとしても、その後も従業員に対して持続的に幸福をもたらさなければ、カリスマ性は消滅する。最もわかりやすい例が、構造改革者として称賛されていたが、金融商品取引法違反および特別背任の疑いで起訴されたのち、保釈中に国外逃亡した日産自動車元CEOのカルロス・ゴーン氏。筆者は数回インタビューした。巧みなプレゼンテイターだった。
サラリーマンで出世する人は巧みなプレゼンテイターである場合が多い。しかし、その人の姿勢が独善的、利己的であるか否かにより、ステークホルダーの評価は変わってくる。「?」に相当するカリスマは、奇跡を達成した実績があるものの、それを個人の実力のみで達成したという独裁国家型首脳の印象を与えない。あくまでも、組織力とフォロワーに支えられた民主国家型首脳の姿勢を貫く。「出る杭は認める」人的資本経営を実践し、社長就任から約30年で売上高を約12倍に引き上げ、ダイキンの「中興の祖」となった井上礼之氏はその好例だ。これからの時代のカリスマとしては、「?」型リーダーが求められよう。
CFOがCEOに就任した好調ソニーの舞台裏
このような「顔の見える経営者」は文字通り主役で、脇役を演じていたのがCFO(最高財務責任者)だった。ところが、ここ数年、企業価値向上、市場との対話に注力するため、脇役が主役(CEO=最高経営責任者)に就任するケースが増えてきた。たとえば、ソニーグループの吉田憲一郎会長(CEO)、十時裕樹社長(COO)は、両者ともCFO経験者である。
ソニーと言えば、すぐに頭に思い浮かぶのが存在感の大きかった2人の創業者。技術の支柱だった井深大氏と独特の口調の英語で堂々と外国の要人と渉り合った盛田昭夫氏である。創業者以降も、元声楽家(バリトン歌手)で芸術家肌の大賀典雄氏、進取の気性に富んだダンディーな出井伸之氏、元ジャーナリストで同社初の外国人トップになったハワード・ストリンガー氏、「お会いした人から日本語も話せるのですねと言われます」と照れるほどネイティブ同然の英語を話す帰国子女の平井一夫氏、といった具合に個性豊かな「顔が見える経営者」が続いた。
ところが、吉田氏や十時氏を見ていると、歴代のソニー首脳と印象が異なる。「目立たない経営者」なのだが、平井氏は後継者となる吉田氏を高く評価した。「2013年12月にソニーコミュニケーションネットワーク社長からソニーに復職して以来、CFOとしての役割にとどまらず、経営パートナーとして、変革を一緒に先導してくれました。吉田は戦略的な思考と目標達成に向けた強い意志、そしてグローバルな視座を持った経営者です。多様な事業領域に及ぶ幅広い知見、経験、そして強固なリーダーシップは、これからのソニーを牽引するのに最もふさわしい人物と考えています」
たしかにその通りだ。吉田氏は「経営の精神」を重んじた稲盛和夫氏と同様、謙虚で目立とうとはせず、優しい語り口で内に秘めた闘争心を露わにしない。外国では英語で堂々とプレゼンするが、日本では謙譲の美徳が財界でも高く評価されている。
創業者およびそれに並ぶような「目立つCEO」が長く続いた企業では、カリスマ幻想が社員に意識的、無意識的の両方で定着している。そこで、順調に出世街道を歩んできたCEOであっても、人を魅了する人間的魅力をどう発揮していくかが成否のカギを握る。
経営リテラシーが高度化していく一方、日本企業でも株主重視経営のもと、経営者は生殺与奪権を株主に握られ、市場と対話できる優等生が高く評価される傾向にある。経営者たる者、それだけでいいはずがない。だからこそ、次の指摘に耳を傾けたい。「経営学において実証主義が主流になるとともに、経営の目に見える側面や測定しやすい側面に目を奪われ、客観的には捉えがたい経営精神は軽視されるようになってしまった」(加護野忠男・神戸大学名誉教授)
アクティビストが企業経営に大きな影響力を持つようになった。数字に神経をとがらせる余り、経営哲学と経営戦略が分断されるようになってしまったのではないか。はたして、従業員、顧客、取引先、社会を感動させられないような経営者が司る企業に投資価値はあるのだろうか。ストーリー性を伴った「経営の精神」の復活が求められる。
筆者のようにCEOと話す機会はなくても、今や、オンラインやIRセミナーで経営トップの話を視聴できる時代である。「現代劇」を演じられる名優か大根役者かを識別するための非財務情報の収集・分析をお勧めする。
【参考文献】
加護野忠男『経営の精神―我々が捨ててしまったものは何か』生産性出版、2010年3月、p.110