リスキリング
文/木田 知廣
※この記事は2024年1月25日発行のジャパニーズインベスター120号に掲載されたものです。
現状に甘んじる日本人
「リスキリング」が空回りしています。もともとは、技能や腕前を表す「スキル」という言葉に、再びを表す「リ」がついて、リ・スキリング、すなわち「スキルを再び獲得しようという」単語です。それが脚光を浴びたのは、2021年に入って政府が後押しを始めたから。その背後にあるのは、人工知能などのテクノロジーの進化です。これに対応できる人材を育成するために、新たなスキル獲得のさまざまな取り組みが提唱されています。
ところが、政府のかけ声の割には、ビジネスの現場は動いていないのが実情。それもそのはずで、現場のビジネスパーソンにとってはリスキリングに取り組むことのメリットが見えません。たとえ新しいスキルを身に付けたとしても、給料が上がるわけでなし。それどころが、仕事が増えてかえって損をしてしまいそう…。
それなら社外に目を向けて、リスキリングによって転職できる可能性が高まるかというと、こちらもアヤシイもの。そもそも日本人は転職意欲がありません。パーソル総合研究所の「APAC就業実態・成長意識調査(2019年)」によると日本人のビジネスパーソンで転職意向のある人の割合は25%で世界14位とそれほど高くありません。ちなみに、同調査ではもうひとつ面白い結果があって、それが「現在の勤務先で継続して働きたいか?」という質問項目。これにイエスと答えた人の割合は52%で世界14位。要するに日本人は、「今の職場は不満だけれど、転職する元気もない」と、仕方なく現状を受け入れているのです (さらに詳しい情報を知りたい方は参考文献をご覧下さい)。それにしても、不思議。なぜこんなにも現状に甘んじてしまっているのか。それを解く鍵が本連載のバックボーンとなる「進化心理学」です。
「昔ながらのやり方」が安心
「進化」というキーワードでピンと来た人もいると思いますが、ダーウィンが提唱した動物の進化の考え方を、心にも当てはめたのが進化心理学です。つまり、人間の心も環境に合わせて適応していくとの考え方です。逆に言うと、適応できないと「淘汰」されてしまいます。
では、人類誕生の100万年前に戻って、淘汰されずに生き延びるためにはどんな心のはたらきが必要かを考えてみましょう。当時は狩猟・採集の生活でしたから、食糧確保が最大の関心事でしょう。とはいえ、何か新しいものに手を出すのは危険がいっぱい。たとえば、これまで見たことがないキノコを見つけて、「お、食べられそう」とパクッといったら毒キノコで命を落としてしまうなんてことはありえます。はたまた、狩りをするのに「新しい石オノを作ったぞ!」と勇んで出かけたのはよいけれど、肝心なときに壊れてしまい、逆に猛獣に襲われてあえなく亡くなってしまうなんてこともあるでしょう。結果として、そうした「新しいものに手を出すのが好きな人」は次世代に遺伝子を残すことができません。
つまり、私たちの先祖を辿ると、「昔ながらのキノコで我慢しておこう」、「狩りのやり方は伝統的なのに限る」というキャラクターであるがゆえに生き延びた人々なわけで、冒頭に紹介した、「つい現状に甘んじてしまう」という傾向を持つのはやむを得ないとも言えます。
ちなみに、このような傾向は人類共通で、英語では「現状維持バイアス(status quo bias)」と呼ばれます。ただ、筆者の見るところ、日本人はとくにこれが強いと感じます。読者の方の身のまわりでも、現状維持のあまり組織の変革が進まなかったり、自浄作用がはたらかないなど、「たしかに⋮⋮」と心当たりがあることも多いでしょう。
借金で危機感をあおる
では、今回の発見を投資に活かす方法を考えてみましょう。まず前提として、今の時代は人工知能などの新しい技術を取り入れた方が、業績も株価も上がると考えます。たとえば、最近話題のChatGPTは、事務職(ホワイトカラー)の生産性を上げますから、人手不足の企業で活用すれば、圧倒的な成果につながりそう。
そのためには現状維持バイアスを乗り越え新たなスキルを獲得する必要がありますが、それを後押しするために社員に危機意識を持たせることが必要。「このままだとウチの会社はヤバイ」と思わせるぐらいの危機感があれば、皆必死になってリスキリングに取り組んでくれそうです。
そのために筆者が注目しているのが「企業の借金の多さ」です。会社の財産に対して借金の比率が多いということは、万が一の場合返せなくて倒産してしまう可能性もあるわけです。つまりは、先ほどの「このままだとウチの会社はヤバイ」という状況にピッタリ。
たとえば、有名な会社でいえば、楽天グループ。会社の全財産に対して借金が90%以上。しかも年々この比率が上がっているので、リスクのとり具合は目を見張らされるものがあります。楽天社内では相当速いペースでリスキリングが進んでいそう。
とはいえ、借金額が多い会社の株を買うことにためらう人もいるでしょう。そんな人にお勧めは逆の見方です。もし、「多額の借金をしてリスクをとっている会社は危機感によるリスキリングが進む」という仮説が正しければ、逆もしかり。つまり、「借金比率が少ない会社はのんびりした社風で、新しいことへの取り組みが遅い」と考えられます。値上がりを期待して株を買おうというときに、そのような会社を避けることで、リターンを大きくすることができるかもしれません。
もちろん、投資は自己判断です。今回話題にした「借金の多さ」だけが選ぶ基準ではありませんし、業態によっても異なります。ひとつの参考にしていただけると幸いです。
参考文献
小林祐児著『リスキリングは経営課題~日本企業の「学びとキャリア」考』(光文社新書・2023年)
【著者プロフィール】
米マサチューセッツ大学のMBA課程で教鞭を執る、ビジネス教育のプロフェッショナル。専門分野の「組織行動論」を活かした企業分析を投資にも活かしている。
ブログ(https://kida.ofsji.org/)でも情報を発信するほか、ツイッター(@kidatomohiro)では、「MBAの心理学」と題して投資や仕事に役立つ心理学の発見を紹介している。